測量 | あすなろ司法事務所

沖縄の基地と登記

沖縄県司法書士会会員  仲 村  弘

1.はじめに
 沖縄から日本がよく見える。日本が今、戦争をしない国から戦争をしようとする国に変わっていこうとするのがよく見える。
 第二次世界大戦で、沖縄島が米軍と日本軍との最後の地上戦・激戦地となり、20万人余(そのうち約12万人余が沖縄住民)が死亡し、戦後は極東一の米軍基地が形成された。沖縄は朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争そして現在続けられているイラク戦争で、常に米軍の戦場への前線基地として使われてきた。沖縄には、日本全国に駐留する米軍基地面積の75%が集中し、東アジア地域全体からも42%の割合で沖縄に米軍基地が集中している。在沖米軍は、日本のみを防衛するために沖縄に駐留しているのではなく、東アジア全体の平和及び安全のために駐留している。
 1960(昭和35)年6月23日公布された「日米安保条約」第6条(基地の提供)では、「@日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するために、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。A前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、1952年2月28日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基づく行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。」となっている。この第6条により締結されたのが、「日米地位協定」である。
 沖縄県では今、この「日米地位協定」の不平等条項の改正を求めて、全国への運動が展開されている。沖縄県司法書士会も特別委員会を設置して、沖縄県の運動の一翼を担おうとしている。沖縄県が日本政府に改正を要請している事項は、平和の問題を始め国家主権・外交・防衛・人権・環境など非常に多岐にわたるが、一番のポイントは、米軍基地内にも又米軍人・軍属(家族を含む)にも、日本法(国内法)の適用を求めるというものである。現在の「日米地位協定」では、米軍人等は犯罪を犯しても基地内に逃げ込めば、原則逮捕拘留されることなく(身柄引渡しの問題)、使用した基地を有害物質で汚染しても原状回復して返還する義務はなく(返還軍用地の環境問題)、基地使用に伴う経費は日本側の負担(おもいやり予算の問題)となっている。「日米地位協定」の不平等条項による被害は、米軍基地の島沖縄に集中している。特に沖縄の米軍基地は、第二次世界大戦の占領によって築かれた基地が、日本復帰後もそのままに使用されてきているので、「日米地位協定」の矛盾が露呈している。住宅密集地の宜野湾市の真ん中にあって、世界一危険な米軍基地といわれる普天間飛行場は、いろいろな意味で矛盾が集積している。1996年当時の橋本総理大臣と米国モンデール駐日大使との会談で、5〜7年以内に全面返還すると発表されたが、普天間基地は撤去又は移設しようにも、動けない状況が続いている。普天間基地返還は、米軍の強権によるのではなく、初めて沖縄住民が自ら米軍に基地を提供する新しい問題点を含んでいる。
 さて本稿は、登記の視点から沖縄の基地問題を考えてみようとするものである。その前に戦後27年間日本本土から切り離され、琉球政府として疑似国家的仕組みの中で、沖縄に適用されてきた法律等の(立法)施行について概観する。

2.沖縄における日本復帰までの法律等の(立法)施行
 1945年(昭和20年)沖縄を占領した米軍太平洋艦隊・・・・の軍政府総長、米国海軍元帥C・Wニミッツ(陸軍司令官ダグラス・マッカーサーは、1950年12月15日から琉球列島民政長官の地位を引き継ぐ。)は、ニミッツ布告と呼ばれる米国海軍軍政府布告第1号「米国軍占領下ノ南西諸島及ビ其近海居住民ニ告グ」を発布する。  これによって、沖縄における日本(帝国)政府の総ての行政権の行使が停止され、総ての日本裁判所の司法権が停止される。立法については、米国占領軍は次々と沖縄占領統治に必要な布告・布令・指令等(布告は、住民あてと明示し重要かつ基本的事項について、布令は、もっとも基本的かつ原型的法形式で議会制定法に匹敵、指令は、琉球政府行政主席あてに行政機関の行為を指示することを目的とした。外に覚書・書簡・一般命令という形式の文書もある。)を発布する。先のニミッツ布告によって布告当時(1945年)の日本法規がそのまま継続して、沖縄が日本復帰する1972年(昭和47年)5月14日迄施行された。つまり日本復帰する迄の沖縄には、占領目的の米軍(高等弁務官)が発布する布告・布令・指令等そして琉球政府立法院が制定する立法、それから1945年4月1日当時の日本法規が施行されていた。
 琉球政府は、1952年2月29日米民政府布告第13号によって、住民による中央政府機関として1952年4月1日設立されるが、これは米軍による沖縄統治を長期的安定的に維持する必要の為に設立されたものである。ちょうどその前後に、中華人民共和国の成立・朝鮮戦争勃発そして「日米サンフランシスコ平和条約」が締結された。「日米平和条約」第3条によって、沖縄は米国が国連に、米国を唯一の施政権者とする信託統治下におく提案がなされるまで、米国が沖縄における全権(行政・立法・司法上すべての権力)を有することとなった。米国は高等弁務官を頂点とする米民政府を設置して、絶対的権限を保留して、琉球政府を沖縄統治の代行機関とした。だから米民政府(高等弁務官)が発布する布告・布令・指令等が優先するわけだが、琉球政府立法院が立法しないがぎり、ニミッツ布告によって1945年(昭和20年)当時の日本法規が適用された。  琉球政府立法院は、戦後日本の国会で成立した法律をまねて、次々と沖縄に必要な法律を立法していった。司法書士法は1955年10月18日立法第52号で、不動産登記法は1960年7月1日立法第37号で、日本での司法書士法や不動産登記法と同文で立法され、改正がなされる度に同じく改正がなされていった。ただ、日本の国会と琉球政府立法院とでは立法の時期(法施行日)が遅れたり、又立法されなかったものもある。
 例えば、民法の第4編親族、第5編相続については、1957年1月1日から施行されたので、沖縄では1956年(昭和31年)12月31日迄は、旧民法相続である。農地法については、1972年(昭和47年)5月14日まで農地法という法律自体が沖縄には存在しなかった。
 日本復帰により、沖縄に日本法が全面的に適用されることとなるが、前記のとおり、米軍基地内には日本法の適用がない(?)。イヤ、原則として適用ある(?)と議論がなされている。その前に沖縄における米軍基地がどのように形成され、登記手続にどのような影響を与えてきたかを次に見てみる。

3.米軍基地の形成経緯
 1945年(昭和20年)6月末までには、米軍は沖縄本島及び近海の島々を、完全な軍事的制圧下に置いた。宮古・八重山諸島に米軍は、同年8月末進駐し、軍政下に置くが、宮古・八重山諸島には軍事基地は形成されていない。宮古・八重山ではむしろ旧日本軍が接収(売買)した飛行場用地(現在国有地)が、問題となっている。このことについても後で詳述する。
 沖縄の米軍基地の特徴は、民有地と市町村有地が多いということである。日本本土の場合、米軍基地は87%が国有地であるが、沖縄の場合は33%しか国有地がない。しかも、33%の国有地の中には旧日本軍が戦時下で接収した、前記のような沖縄本島(読谷・嘉手納・那覇)及び伊江島での広大な飛行場用地(現在国有地)を含む。なぜこのような違いが出ているのか。それは1945年(昭和20年)以降の完全な軍事占領により確保した基地が、現在もそのまま米軍基地や自衛隊基地等となっているからである。
 米占領軍は、1945年10月23日「住民再定住計画及び方針」(米国海軍軍政府本部指令第29号)を発令し、「キャンプ」と呼ばれていた収容所に集められていた住民を、1年内には元の家屋敷に帰し、耕地を耕作させ自活をうながすようになる。基地として必要なところには、鉄条網をして、一方的に基地を確保した。占領と同時に多くの私有地が基地となり、米軍に不必要な土地のみが住民に開放された。
 ところが、元家屋敷に帰ろうにも基地として確保されているところは、鉄条網で入れず、鉄条網の近くで集落(新部落)を形成せざるを得ない多くの住民が出た。これと関連して米軍は、基地建設や港湾作業(軍作業と呼ばれた)に従事できる若い労働者には、土地を割当てして、仮小屋やテント、その他建築資材を提供して労働力を確保した。これにより、後で詳述する地図混乱地域の問題や割当土地の問題が発生することとなる。  米軍は、沖縄を軍事占領した当初、基地の使用料(賃料)を支払うということはなかった。しかし米軍は、1945年4月1日沖縄本島上陸の当時から、将来は基地使用料を支払わなければならないとの意識は持っていた。それは先のミニッツ布告第1号の第4項に「本官ノ職権行使上其必要ヲ生ゼザル限リ、居住民ノ風習並ビニ財産権ヲ尊重シ、現行法規ノ施行ヲ持続ス。」と布告していることからも判る。
 1952年4月28日「日米サンフランシスコ平和条約」前後から、米軍は土地使用料を支払わざるを得ないこととなる。それは、土地所有権の認定手続を背景に、土地所有者からの当然の要求であった。1952年5月26日琉球政府立法院は、「軍使用地地代の支払いに就いて、軍も度々発表はしているが、地代をいかなる方法で決定するかは民主主義の基本的問題にも関連があり又その支払は琉球人民の大きな要求である。・・・地代決定に琉球人土地所有者代表を参加させることが根本問題である。・・・」と要請する。  更に、琉球政府立法院は、「先に軍から琉球政府に明示された軍用地の地代は、民間における取引地代との間に其の差が甚だしく不当に低廉である・・・」とし、終戦後1945年8月15日から1952年4月28日迄の軍用地地代支払い、そして1952年4月28日以後の地代支払いについても要望する(同年6月18日)。これに対し、米軍は1950年7月1日から1952年4月27日に至るまでの借地料を支払うことは同意する(1953年3月23日米民政府布令第105号)。ところが、賃料の支払いはその前の1952年11月1日「契約権」(米民政府布令第91号)にもとづく賃貸借契約を条件としていた。その地主との賃貸借契約は、低賃料等のため契約締結が不調に終わったので、政治的見舞金的地料が支払われた。米軍は地主との借地契約ができなかったので、1953年12月5日「軍用地域内に於ける不動産の使用に対する補償」(米民政府布告第26号)では、先の米民政府布令第105号にもとづく地代支払を根拠に、既に『黙契』が成立しているとした。
 米民政府布告第26号第1条「合衆国軍隊が黙契によりこれまで収用してきた軍用地の使用及び占有に対する合衆国の権利を、ここに確認すると共に合衆国はその代行機関が現在占有している土地をこの布告の第2条に基づき、正式に登記することによって1952年4月28日又はその後において、この布告の発効期日前に収用した日から1954年6月30日までの期間公共のために設定された現在の地役権を妨げることなく当該土地の占有及び使用に対する権利を保有するものとする・・・。」その結果、米陸軍沖縄地区工兵隊(DE)の評価により支払われた地料は、那覇市(小禄)飛行場の地目畑等級3(普通)の場合、1坪当たり年8円10銭というケタはずれに低くおさえられたものであった(当時沖縄はB円という軍票通貨で、タバコ1個10円であった。1ドル=120B円換算)。
 1950年代になって、中華人民共和国の成立そして朝鮮戦争の勃発という極東情勢の変化によって、太平洋の要石(キーストンオブザパシフィック)として沖縄基地建設が強化されていく。米軍は、地主との借地契約ができないので、1953年4月3日「土地収用令」(米民政府布令第109号)を発し、一度解放した民有地を再度「銃剣とブルトーザー」で確保しようとして、沖縄住民の島ぐるみ土地闘争を誘発した。
 1953年5月5日琉球政府立法院は、「琉球における米国軍使用地に関する決議」をなす。決議は、「一、軍用地使用料の適正妥当な賠償も未だ根本的解決を見ない矢先、突如として布令第109号の公布により軍用地拡張のため強制立ち退きと土地収用宣告をみるに至ったことは・・・誠に遺憾と・・・」し、「二、・・今回の土地収用令は、所有権の侵害であり、若し、これが強制的に実施されるならば、直ちに、明日からの生活ができない状態に追い込まれるので、関係部落の・・・住民は、恐怖と不安におののいている。従って、強制立退を「死の宣告」と断ずるまでに至り「立退絶対反対」の血の叫びを訴え、憂慮すべき事態を惹起しつつある。」「三、アメリカ民政府の不当なる土地取り上げの処置は、世界人権宣言及び国連憲章に明記された基本的人権を擁護すべしとの趣旨にもとる・・・」旨の抗議をしている。
 島ぐるみ土地闘争は、当時の沖縄住民総数約80万人のうち、約20万人の住民が反対集会に結集するという、正に島ぐるみの土地闘争であった。島ぐるみ土地闘争は、軍用地使用料をこれまでの約6倍という大幅引き上げなどによって、米軍基地が確保され一応解決していく。米軍支配に反対する住民のエネルギーは、その後の祖国復帰運動や反戦地主会、一坪反戦地主運動等へとつながっていく。

4.軍用地等と登記
 沖縄の米軍基地問題を考える場合、1972年5月15日沖縄の日本復帰によって、米軍基地の一部が日本の自衛隊によって肩代わりされたり、日本の国土交通省が所管する飛行場用地となったりしている。これらも含めて、日本国から賃料(軍用地料)が地主に支払われている。沖縄では米軍基地のみではなく、自衛隊基地、飛行場用地等も軍用地と総称されている。軍用地という地目は、不動産登記法上もちろん存在しないので、登記簿上「田・畑」等の農地は、雑種地に地目変更登記をして、売買等の所有権移転登記はなされている。地目変更登記ができない登記簿上農地が黙認耕作地問題と「位置境界明確化法」未合意土地問題である。
 昭和20年の米軍が占領する以前から、旧日本軍が接収(売買)した飛行場用地の問題もある。これは、昭和18〜19年風雲急を告げる本土防衛、沖縄を防波堤とする「国家総動員法」の下で、旧日本軍と民間人との間で、私法上の売買契約が成立しただろうかという問題である。というのは、米軍に接収されたのは、現在軍用地料収入があるが、旧日本軍に接収されたのは、国有地となり軍用地料を受領できないという皮肉な状況になっているからである。沖縄の経済は、この軍用地料の問題と大きく関連している。軍用地料の支払いは、土地登記を基礎に、土地所有者に支払われている。それではここで戦後沖縄の土地、特に軍用地がどのように登記されていったかをみてみる。
 沖縄の登記簿及び公図類は、戦災滅失により戦後新しく作られたものである。米占領軍は、1946年2月28日米国海軍軍政府本部指令第121号「土地所有権関係資料蒐集に関する件」により、土地所有権認定の準備として関係資料の蒐集事業にのりだす。各村に5名の村土地所有権委員及び各字に10名の字土地所有権委員が任命される(実際には、字は5〜8名程度であった)。土地所有者は、字土地所有権委員会に隣接土地所有者2名を保証人として、所有土地の申請書を提出することにより始まる。公有地については、村土地所有権委員会が土地調査をして、記録を村長に報告することになっていた。
 昭和18〜19年に旧日本軍に接収された飛行場用地は、米軍が基地として確保していなかった那覇市内の石嶺秘密飛行場や浦添市の沖縄南飛行場そして西原町の沖縄東飛行場等は、個人の所有土地申請が認められたが、米軍が基地として確保していた伊江島飛行場、読谷飛行場、嘉手納飛行場、那覇(小禄)飛行場等は、個人の所有土地申請は認められなかった。土地所有権認定事業で個人の所有土地申請が認められたのか、認められなかったのかは、那覇(小禄)飛行場の場合、1坪当たり年間軍用地料約1万円、売買価格坪当たり約30万円となっている現在、なんとも納得できないわだかまりを関係者に残している。昭和52年に提訴がなされ、平成7年に最高裁判決が出た嘉手納基地土地所有権確認等訴訟は、旧日本軍に接収された地主から、国を相手になされた裁判である。「日米安保条 約」の要、極東一の米軍基地嘉手納飛行場についてである。───── 旧地主の 所有権は認められなかった。
 米軍が沖縄の基地を長期・安定的に確保するには、早急に土地の所有者を確定して登記をし、所有者と賃貸借契約をなす必要があった。特に日本との平和条約を締結してからは、これまでの軍事占領同様の無償使用はできない。よって米軍は、日米単独講和が締結された1952年(昭和27年)前後に、「土地所有権について」(1951年4月16日米民政府特別布告第4号)、「土地所有権」(1951年6月13日米民政府布告第8号、1952年4月1日米民政府布告第16号)、「契約権」(1952年11月1日米民政府布令第91号)等を次々と発布している。「契約権」には「三、・・・琉球政府の任務・・・米国政府の取得すべき土地の法律上の所有者決定、土地貸借についての地主との交渉、地主と琉球政府間の借地契約書の作成とその実施、琉球列島米国民政府から受領する金額の受領証発行、琉球政府から米国政府へ転貸する契約とその実施、及び以後の年間土地使用料の支払いをなすことである。」となっている。この年間土地使用料が前記のとおりあまりに低額であったことと、賃借期間が20年の長期となっていたため、土地所有者は琉球政府行政主席との契約を拒否した。そこで米軍は「銃剣とブルトーザー」の武力による強制収用に出て、地主のみではなく「島ぐるみ土地闘争」に発展していく。
 一方登記については、字土地所有権委員会に、測量図又は見取図が添付された所有土地申請がなされると調査・審査の上、土地所有権証明書が作成され最終的には縦覧期間経過後、異議のないのものには、市町村長から申請人に土地所有権証明書が1951年4月1日付で交付された。この「土地所有権証明」(1950年4月14日米国軍政府本部特別布告第36号)第10条、では「土地登記所は再開し、・・・」となっていたが、戦後実際に登記所が再開されたのは、1951年7月1日からである(1951年6月20日沖縄群島告示第19号)。
 それでは、このようにして出来上がった戦後沖縄の土地登記簿に関し、先に述べた若干の問題を詳述する。
 まず地図混乱地域・境界不明土地そして割当土地の問題である。これは「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦によって戦前の地形・地物が破壊され、土地の筆界が不明となっていて、境界争いをめぐる問題が現在に至る迄続いていることである。 戦後まもなくなされた土地調査・測量は、戦争を生き残った者が、1日2日の研修でにわか測量士となり、又必要な器具機材のない状況で作成された公簿・公図なので、不正確なものとならざるを得なかった。更に、食べること生きていくことが最優先の終戦後において、「住民再定住計画及び方針」(米国海軍軍政府本部指令第29号)によって、米軍地区隊長が公共・居住・農業を目的とする場合には、必要な土地を割当てるとの措置がとられた。境界を無視した土地割当がなされ、住宅地等が形成されたので、境界不明土地となり、後日境界争いが発生することは、自明なことであった。
 割当土地問題であるが、1951年4月1日付の土地所有権証明書を有する者(土地所有者)でも、「6ヶ月」は従前の割当土地使用者に対して所有権の行使ができなかった。その後「沖縄群島割当土地に関する臨時処理条例」そして「条例廃止に伴う琉球政府の立法」がなされた。その立法の内容は、土地所有者と土地使用者とは、1951年4月1日を以って公共・住居又は農耕を目的とした割当土地の賃貸借の契約を締結したものとみなすというものである。保護期間の「6ヶ月」も「3年」に、「4年3ヶ月」に、そして「10年」に延長された。最後は1966年8月10日琉球政府立法第117号で割当土地の賃借権については、借地法に基づく賃借権とみなされ、立退きに正当事由を要する借地法が適用された。戦後地主の承諾もなく米軍が勝手に割当てただけに、割当土地上には、建築基準法の関係及び地主との関係で、土地使用者は建物の建て替えもできずトタン葺きの木造建物が、その歴史を物語るかのごとく今も建っている。  割当土地による地図混乱のみでなく、戦後まもなく米軍とのコネが強い民間デペロッパー等が公図・公簿との関連なく宅地造成し、任意の区画整理に準じた換地をして、住宅供給等をしたために多くの地図混乱地域が発生している。現在那覇地方法務局の不動産登記法第17条地図作製や「国土調査法」に基づく沖縄県の地籍調査により、その是正が図られている。
 次に所有者不明土地も沖縄ならではの問題である。那覇地方法務局には、所有者不明土地登記簿というのがあり、登記簿表題部所有者欄に「管理者琉球政府(又は何市町村)」と管理者が記載されているか、又は甲区の保存登記はなされていないのに表題部の所有者欄には、管理者名のない「空白」状態の土地がある。「所有者不明」と記載された表題部所有者欄もある。これは、「土地所有権」(1952年4月1日米民政府布告第16号)第3条に基づき、私有地であると決定する特定の土地が、不在地主の所有に属するものである場合の処置である。不在地主とは、所有権認定事業当時地主が地域に不在のため、土地所有申請がなされなかった地主のことである。不在の理由は、戦災によって一家が全滅した者あるいは本土・海外から未帰還者、又は親族縁者がその地域にいなかったため等である。申告漏れにより、所有者不明土地になった可能性のあるものもある。
 所有者不明土地は、所有者のいない土地とは異なり、明らかに所有者はいるはずだが、所有権認定事業の時点で、誰が所有者なのか、所有者の申請がなされなかった事によって生じている。
 所有者不明土地の管理者は、地目が墓地・社寺用敷地・霊地・又は聖地に属する場合は市町村が、その他は琉球政府が管理することとなっている。所有者不明土地の解消は、不在地主が現れ、管理者(沖縄県又は市町村)の承認書を添付するか、又は管理者の管理が取り消された旨の管理者からの証明書と自己の所有であることを証明する資料を添付して、土地所有者更正登記で処理することとなる。自己の所有であることを証明するために、管理者を相手に土地所有権の確認訴訟をなし、その判決書を添付して申請しているのが実務である。
 黙認耕作地問題は、農地法及び「位置境界明確化法」未合意土地に関わる登記簿地目「田・畑」の「軍用地」の移転登記手続きに関わる問題である。1972年5月15日の日本復帰前まで、沖縄には農地法がなかった。日本復帰後は、那覇防衛施設局や運輸省(現在国土交通省)から、いわゆる「軍用地証明書」と呼ばれる米軍基地・自衛隊基地・飛行場用地として使用されている旨の証明書を添付して、地目は農地のまま売買等の所有権移転登記手続きはなされてきた。ところが、日本復帰11年後の1983年3月25日那覇地方法務局長は、登第92号をもって「当該申請書に農業委員会の農地に該当しない旨の証明書、又は防衛施設局の軍用地等である旨の証明書の添付があっても、農地法所定の許可があったことを証する書面の添付がない場合、受理すべきでない。」との方針を打ち出した。つまり「軍用地」内での登記簿地目「田・畑」等は、地目変更登記を経た上で、売買等の所有権移転登記手続をせよとのことである。
 ところが沖縄県や市町村農業委員会では、今でも「軍用地」について農地法上の取り扱いをしていない。農地法の許可を要しない土地の証明事務(非農地証明書の発行)も取り扱っていない。それは、「軍用地」内には農地法の適用がない(?)、あるいは「軍用地」内には立入調査確認ができないから証明書が発行できない、との理由による。そこで「軍用地」内登記簿地目農地で、現に耕作して農産物を産出している黙認耕作地(生産性のい土地が多い)について、どのようにして売買等の登記手続きをするのかという問題が発生した。農地は、農地以外に地目変更登記はできないのである。
 これに対し沖縄県司法書士会は、軍用地問題特別委員会を設置して「軍用地内の黙認耕作地は農地法上の農地に該当しない。」との結論を出した。これは農地法上の農地の定義と「日米安保条約」第6条に基づく「日米地位協定」第3条1項並びに同第2条4項(a)を根拠としている。つまり黙認耕作地は、安保条約により日本国が米軍に提供した土地であり、日本国自ら農地として使用する(させる)ことを放棄・断念した土地である。黙認耕作地は、米軍の都合で朝令暮改的に作付制限や耕作時間の変更が繰り返され、「日米地位協定」第2条4項(a)でいう共同使用の許可も得られていない。よって、農地として保護する実益を放棄していると解釈せざるを得ないので「農地に該当しない」とした。逆説的な理由付けではあるが、要は農地法許可手続き方法がないので、「農地ではない」、というしか登記処理方法がなかったのである。
 同様な問題が地目変更登記ができない「軍用地」内の「位置境界明確化法」未合意土地にもある。現に耕作をしていない土地であっても、登記簿地目農地には発生する。「位置境界明確化法」は、土地所在の小字ごとに所有者全員が集団和解(合意)して、土地筆界を決めるという法律である。戦災により証拠のない中、所有権認定事業で申請がなされた土地のみを比例配分した編纂図により、土地筆界が確定していった。そのうち、集団和解できなかった土地が未合意土地である。那覇地方法務局通達では、未合意土地は位置・境界が特定されてなく現地確認ができないとの理由で、地目変更登記申請が受理されない。よって、未合意土地内の登記簿農地について、売買等の所有権移転登記が原則できない。  黙認耕作地に関し、戦争のためには1坪の土地も軍用地としては提供しない、軍用地を生活と生産の場に変えていこう、とする反戦運動が組織された。一坪地主会である。一坪反戦地主会では、反戦の方法として未契約軍用地の1坪共有化(共有登記)運動をすすめる。その一坪反戦地主会から、1983年8月従来どおりの「軍用地証明書」を添付して、登記簿地目農地のまま地目変更登記をせずに、登記名義人を198名増加させる所有権(持分)移転登記申請がなされた。これが新聞等で大々的に取り上げられた一坪反戦地主会に対する登記拒否事件である。ところが、この問題は、日本の国家主権をも含む大きな論点の前に、今もってスッキリとした解決はしていない(那覇地方法務局は今回限りとして、一坪反戦地主会からの所有権移転登記申請をそのまま受理した)。
 これらの売買等の登記処理は、実質審査権をもつ表示登記官の「良心」に訴えて地目変更登記を認めてもらうしかない方法はないのか、今もって明確ではない。登記官に地目変更登記を認めてもらうために、砂利・コンクリート等で農地を潰し、非農地の現況を作り出すこともある。土地所有者と黙認耕作者が同一であれば問題はそれほどでもないが、異なる場合は農地潰しも不可能となる。これが沖縄の不動産登記の現実である。  沖縄の不動産登記は、先に述べたように米国海軍軍政府本部指令121号「土地所有権関係資料蒐集に関する件」により、所有土地の申請から始まったので、所有権申告がなされなかった「登記もれ土地」の問題もある。「登記もれ土地」の所有者の中には、戦前の登記済証等の証拠資料を所持しながら登記がなされていない。民事訴訟でも不可能であった。それは、戦後作成された公簿・公図との関連や現地が軍用地で中に入れない、現地がどこにあるのか特定できない、そして隣接地主のみでなく小字全体の関係地主全員からの承諾がもらえない等の理由である。逆に、戦後作成された登記簿・図面には記載はないが、現地には土地があり、隣接土地所有者等周囲の者もこれを認めている返還軍用地もある。「登記もれ土地」は所有者不明土地とは異なり、登記簿表題部自体がない。  外に、登記簿・図面もあるが、現実には米軍が軍港拡張や軍事基地構築のため、土地堀削・採取して海没地となり、現実には存在しない土地もある(軍用地料との関係もあるので、土地滅失登記をするわけにはいかない)。
 沖縄には、戸籍訂正しないと相続登記ができない土地や相続人が外国に居住している等の渉外登記が多い。相続を証する書面である戸籍について、沖縄の戸籍簿も登記簿と同じく戦災滅失して、戦後再製されたものがほとんどである。相続を証する書面が不完全な場合、通常「他に相続人はいない」旨の申述書を添付しないと、相続登記はできない。このような場合現在の登記実務(民事局通達)が、相続人全員による印鑑証明書の添付の申述書を求めているので、沖縄では一人でも遺産分割等に反対者がいると、法定相続分どおりの登記申請でも、ほとんどできない状況にある。もちろん相続人間の合意があれば、申述書への実印での押印も印鑑証明書の添付も問題はない。しかし相続人全員からの申述書を添付できないから、法定相続分での登記がしたいのである。一件何でもないような通達が、戦後再製戸籍の沖縄では、保存行為としての登記申請もできず、不公平な結果を生じさせている。全相続人の印鑑証明書付き申述書の通達は、過半数の相続人からの申述書に、早急に是正されるべきものと考える。
 戸籍訂正等を要する登記を、通称「複雑困難な登記」と呼んでいる。「複雑困難な登記」であるため登記手続がなされず、戦前・戦後旧日本軍や米軍、琉球政府や沖縄県そして各市町村が、開通させた道路敷地について、今もって何らの補償もされずに公道として使用されている私有地が、沖縄には数多く残されている。今、(社)沖縄県公共嘱託登記司法書士協会は、これら「複雑困難な登記」の解決にむけて、国・県・市町村に積極的な委託を働きかけている。

5.おわりに
 沖縄でもバブル崩壊後、土地価格の下落が続いている。最高価であった平成3年の土地価格から、半分以下、3分の1の価格になった土地も多い。しかしながら「軍用地」は異なる。現在値上がり巾は減少したが、今でも「軍用地料」は値上がりし、それに伴い「軍用地」の売買価格も値上がりしている。これは「軍用地」の売買が、年間「軍用地料」の何倍という基準で、売買価格が決まるからである。ちなみに那覇空港(旧日本軍の小禄飛行場や近くの自衛隊基地含む)の場合、「軍用地料」の30〜35倍で売買価格が決定されている。ここ10年以上、倍率に変化はない。「軍用地料」が毎年増加しているので「軍用地」の売買価格の値下がりはないのである。だからバブル崩壊した後も、「軍用地」売買取引だけは下火になることなく、旺盛である。今でも新聞紙上では「軍用地」買います・売ります等の広告が後を絶たない。路上には「軍用地売買」の看板が目につく。銀行は一般より低利な「軍用地主ローン」を準備している。「軍用地」は、固定資産税評価や相続・贈与税評価では借地権控除(4割)があり優遇され、借地人は国(防衛省や国土交通省)だから賃料未払いということもない。年金があてにならない現状では、一番堅実な老後の投資先として「軍用地売買」は人気がある。
 戦後物価も安かった当時、琉球政府立法院が「・・軍用地の地代は、民間における取引地代との間に其の差が甚だしく低廉である・・・」と米軍に賃料値上げをしていたのと比較すると、最近「軍用地料は高すぎる」、「不労所得だ」との新聞投稿も出る。かつて軍用地主は、同情さるべき存在であった。今はその立場が逆転して、同情さるべき存在からうらやましい存在になっている。これは日本国が、米国の軍事基地を確保するために毎年「軍用地料」を値上げしているためである。日本国としては、沖縄に反戦地主が多くなっては困るのである。現在全国に散らばっている一坪反戦地主を除いて、日本復帰前約3,000名いた沖縄の反戦地主は、今では100名を割っている。日本復帰後、反戦地主が少なくなっていった理由は、「軍用地料」が毎年値上がりしていったからだけではない。賃借人である国(防衛庁等)は、賃料支払方法や税金その他においてさまざまな画策をして、契約地主と契約拒否地主(反戦地主)を地域内部で対立させるようにしていったからだと言われている。
 いつの間にか、時代は大きく変化していっている。沖縄では、絶対的知名度を誇っていた革新の大田前知事が、経済界からの新人稲嶺現知事に37,500票もの大差をもって「21世紀の沖縄のリーダーを選ぶ選挙」に敗れた。沖縄県民は、大田前知事の「基地撤去」より、稲嶺現知事の「基地撤去よりまず不況対策」を支持した。日本の国会内外では、タブー視されていた憲法改正論議が、小泉政権下で活発化している。自衛隊もイラクに派遣された。憲法違反だと言われたりしていた自衛隊を、多くの日本国民がその存在を認めている。今、日本国憲法第9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)をどうするか、国民一人一人の目の前に突きつけられている。戦争になると、人間の尊厳も人権もひと溜まりもない。戦争は、特に弱い者に銃口がむけられ、弱い者が被害を受ける。『沖縄戦の実相にふれるたびに、戦争というのはこれほど残忍で、これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです。このなまなましい体験の前では、いかなる人でも戦争を肯定し美化することはできないはずです。・・・』と沖縄は、平和の尊さを訴えている。
以 上

今後、随時掲載していきます。